なぜ、記憶できるの?

 

さっき友人が、お客さんのこと、

話してくれました。

 

あまりご自身の過去のことが記憶にないようで、

エピソードがご本人から出てこないんだと。

 

あまり自分の過去のことが記憶にない。

 

エピソードが本人から出てこない。

 

あれ?

 

なんだろう?

 

どっかに覚えのある感覚だ。

 

話を聴いているうちに、

私の中にある感覚が

呼び覚まされてくるのがわかりました。

 

私が、大学に入り、社会人になって

新しい友人たちと過ごす中で

感じていたこと。

 

友人たちと話しているとき、

友人たちは、昔の出来事から、この間あった出来事まで

すごく面白おかしく話すのです。

 

「あのときさー、ひとみちゃんこんなことしたよねー!」

 

「そうそう、で、ちほさんがこんなふうになっちゃったんだよねー(笑)」

 

あたかも、ついさっき目の前で起こったことのように

面白おかしく話す友人たち。

 

あるとき、ふと、彼女たちの記憶の中に鮮明に残っている出来事が

私の記憶の中には、ぼんやりとしか残っていないことに気づきました。

 

そうだったよね、面白かったよね、

 

と、友人たちの話で、

 

面白かったこと、楽しかったことを

 

反芻している私。 

 

同時に

 

あれ?そうだったっけ?

 

と細かな記憶がないこともありました。

 

私は、彼女たちと同じようにその場にいて

同じようにその出来事を体験していたのに。

 

なぜだろう?

 

なぜ、私は、友人たちより

 

出来事の記憶が薄いのだろう?

 

しばらく、そんなことを

考えている時期がありました。

 

答えは見つからないまま、

そして、いつしか

そんなことを考えていたことも忘れていました。

 

ところが、今朝、友人のお客さんの話を聴いていて

私のあのときの感覚が、身体の奥底で

ふと目を覚ましたのです。

 

その感覚をたどる中で

気づいたこと。

 

記憶とは、

 

自分の「感情」にもとづいて

 

記憶されるものだ

 

ということ。

 

うれしい、楽しい、好き、

かなしい、つらい、腹が立つ。

 

そういう自分の「感情」を

しっかりと認識するから

その「感情」が湧き起こった

出来事が記憶される。

 

自分の心が動くから、記憶に残る。

 

それは、とりもなおさず

自分の「感情」の結びついていない出来事は

記憶に残らない、ということ。

 

いつも

「人の感情」を気にして

「自分の感情」をすっとばしてきた私が 

20歳の頃に、感じていたこと。

 

 

なぜ、私は、

 

出来事の記憶が薄いのだろう?

 

 

そのときの問いに

初めて答えが出た朝でした。

 

 

そして今、私がこうして

自分の「感情」に目を向けて、

宝物の日々を過ごせるようになったこと。

 

こうして気づけるようになったこと。

 

それは、友人が

私に、自分の「感情」を

自由に出すことを許してくれたから。

 

いえ、

むしろ、出てこない私の感情を

表に引き出してくれたから。

 

なぜなら、

出会ってすぐに、友人は

「私の課題は、凍りついた感情を溶かすこと、かもしれない」

と気づいてくれていたから。

 

今、私がこうして

友人のお客さんのことが少し理解できるようになったのも

あなたが、私の感情を自由に出せるようにしてくれたから。

 

そして、私の感情をほどいてくれたから。

 

あらためて。

 

いつも本当にありがとう。