「ない」からこそ味わえるよろこび

 

先日、歌の先生に久しぶりに会った。 

 

1年半ぶりくらいだろうか。

 

私が3月にお伊勢さん詣りをするようになったのは、

歌の先生が、お伊勢さん詣りをしたときの話を

4年前の3月に聞いたから。

 

今年も先生のおかげで、3月にお詣りができたこと

先生に会って報告したくなった。

 

で、今日もしレッスンで、教室にいるようだったら

お伺いしてもいいですか?ってメールしたら、

 

「もうすぐ還暦コンサートだから、今日はレッスンを入れてないの」

 

とのことだったので、コンサートが終わってからの先日、

ようやく会えた。

 

先生に、4年目のお伊勢さん詣りをした報告とお礼を伝えて、

近況報告する中で、4月に絵を購入したことを話した。

 

20数年前に、その絵に出会った時は、

影の部分が受け入れにくかったことを話したら、

「若いなぁ~!」って、一笑された。

 

さすが先生(≧▽≦)☆

 

でも、今回はその絵をまるごと美しいと思えて購入したんです

って言ったら、

 

「成長したや~ん♬」

 

そう言って、

先生も一目惚れしたチェロ奏者の絵の話をしてくれた。

 

まるで本当に弾いているかのような動きのあるその絵は、

ホテルニューオータニに飾られていた絵で、

帰り道にいつもホテルの中を通って、

その絵を眺めて帰っていたのだそう。

 

その人の絵を、ひょんなことから

オークションに出ているのを見つけて、

なんとしても手に入れたくて、

ギャラリーの人に落札のコツを聞いて

手に入れた絵。

 

いつもその絵を見ると、

 

「うん☆」

 

って思うのだという。

 

来る日も来る日も、ホテルに寄り道して

眺めていた画家の人の絵を手に入れたよろこび。

 

先生が言った。

 

「きっと億万長者の人には、

私たちのこのよろこびは、わからないわねぇ」

 

確かにそうかもしれない。

 

「ない」からこそ、

 

味わえるよろこびがある。

 

「ない」ことにフォーカスするのか

 

「ない」からこそ味わえるよろこびにフォーカスするのか。

 

いつも後者の目をもっていたいと思う。