涙と笑いのジェットコースター

 

「五月晴れの清々しいお天気の中、

こんな暗闇の中へ、よくおいでくださいました」

 

そんな言葉から始まった今日の舞台。

 

初めて知った演目で、どんなのだろうと思っていたが、

 

最高、だった。

 

2部のための1部が丁寧に構成されており、

それぞれ違う2つの物語が

全体を通じて、しっくりと一つにつながる。

 

時折織り交ぜられる

その人の温かい眼差しの解釈が涙を誘う。

 

こらえきれないほど涙があふれてくる。

かと思えば、

次の瞬間、笑いがおこる。

そして、また涙。

 

泣いたり笑ったり、それが間髪入れずに起こるから

もう泣いてるのか笑ってるのかわからなくなって

顔がぐちゃぐちゃだった。

 

鼻をすする音があちこちで聞こえ

笑う時は大爆笑。

 

ジェットコースターのように泣くのと笑うのが交互にやってくる。

 

1300人みんな、わたしと同じ、顔がぐちゃぐちゃになってただろう。

 

2時間近くこんなにも泣きっぱなしだったのは、

小学生の時に見た小象物語以来だ。

 

私が予約した1分後には売り切れていたチケット。

 

この奇跡の舞台に出会えたことに

感謝せずにはいられない。

 

国宝だと思う。

 

8年間ずっと同じ演目を演じ続けていても

毎年違う気づきがあると言う。

 

延べ3万5千人が見ているというこの舞台。

 

ご本人は、同じ演目ばかりで

もうそろそろお客さんも飽きてるんじゃないか

替えないといけないんじゃないか

そう思われているそうだが、

今日も1300人の満員のホールには

毎年楽しみに来られている人がたくさんいるのではないかと思った。

 

終わってから、近くのカフェで、もらったパンフレットを見ていると

アンケート用紙が入っていた。

 

お店の人に、

 

「5分ほど席を空けます」

 

そう言って、

 

「次の年も、その次の年も、またその次の年も

ずっとこの演目を続けてほしい。

来年も来ます。」

 

と書いたアンケート用紙を手に、劇場に戻った。

 

 

 

母の日に

 

私の母は、信念の人。

 

お父さん子だった母が、

お父さんを山の事故でなくしたのは

21歳の時。

 

その時、母は天涯孤独になった気がしたという。

 

そして、父とお見合いをして

22歳で結婚。

そのまま父の両親と同居。

 

右も左もわからないまま、

父の両親、親せき、近所の目が

母に重くのしかかった。

 

小さな田舎の町。

 

夕方過ぎて雨戸が開いていたりすると

近所でうわさされる。

 

出かける時間、帰ってきた時間

そんなこともうわさになるような

小さな田舎の町。

 

玄関のある母屋には、父の両親が住み、

私たちは、奥の家で住んでいた。

 

出かけるときは、必ず母屋を通っていかなければならない。

 

母は、ほとんど出掛けなかった。

 

奥の家で、息をひそめるように

暮らしていた。

 

私も、3歳になるくらいまで、近所の人の中には、

私の姿を見たことがなかったという人もいた。

 

父の両親、親せき、近所の目。

 

母に向けられた目に、母は耐え続けた。

 

でも、ひとたび私たち子供や家族、

そして、弱い人たち、声の小さな人たちのこととなると

母は、強かった。

 

誰も立ちたがらない矢面に

母はすすんで立った。

 

弁が立つわけではない。

 

でも、静かに穏やかに話す母には

威厳があった。

 

自分のことに向けられる目には、強くなかったが

家族や声の小さな人という守るもののためには、

母は、強かった。

そこには、母の揺るぎない信念があったからだ。

 

私の小学校は、中学受験に反対だった。

中学受験をすると言っていた友達のお母さんは

みんな学校へ呼び出された。

 

そこで、女性の教頭先生と対峙する。

 

母も、ご多聞にもれず呼び出された。

 

大げんかをして、帰ってくる友達のお母さんたち。

 

でも、母は、けんかをすることなく

 

しかも、あの教頭先生から

 

「100点満点あげられます」

 

という言葉をもらって帰ってきた。

 

家族の誰よりも

矢面に立ち、傷ついてきた母。

 

そんな時でも、

 

母は

 

いつも家族の

 

太陽であり、

 

月だった。

 

 

お母さん

 

いつもありがとう。

 

今度、瀬戸内海の風を浴びに行こう☆!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「信じる」とは?

 

「『信じる』って、しあわせなことね」

 

人は誰しも、「信じたい」のかもしれない。

 

神様にお祈りをするのも

 

占いをしてみたりするのも

 

ちょっとしたことに意味を見つけるのも

 

「信じたい」想いがあって

 

それをひとつひとつ

 

自分で確かめていく行為なのだと思う。

 

今日の新聞のコラムは柴門ふみさんの

「神様 お願い」だった。

 

困難にであったときに、神様お願い...と口から出そうになると

ジョン・レノンの歌詞の

 

「神なんて、我々の苦悩を測る物差しに過ぎない」

 

をずっと心に刻んで、自力で頑張ろうと、

心を奮い立たせてきた、と書いてあった。

 

でも、歳をとるにつれ、神さまは「苦悩」ではなく

「人間の弱さ」を測る物差しなのではないかと

思うようになったという。

 

 

私は、

 

神さまは

 

「信じたい想い」を測る物差し

 

なのではないかと思う。

 

人には誰しも「信じたい想い」があって

 

それを

 

神様にお祈りしたり

 

占いをしてみたり

 

ちょっとした出来事に結びつけたりして

 

「やっぱりそうだよね」って

 

ひとつひとつ

 

「信じたい想い」を強くしていく。

 

そうやって、

 

「信じたい想い」を強くしていって

 

自然と信じられるようになったとき、

 

それは「しあわせ」になるのだと思う。

 

 

母が言った真実。

 

「『信じる』って、しあわせなことね」

 

私の力の源泉、

 

私をつくってくれている言葉です。

 

 

 

 

 

語りかけること

 

今日は、暖かい陽気に誘われて、

Suzieとランチの後、公園散歩。

 

毎年春と秋恒例の植木市で、山椒の木を見つけた。

 

ちょうど欲しいと思ってたところ。

しかもリーズナブル。

 

パセリと母の日に贈りたいなと思う鉄線の花も

一緒に購入。

 

帰り道、Suzieが山椒とパセリの入った方の袋を持ってくれた。

 

四川省出身のSuzieは、山椒が大好き。

四川料理の辛味に山椒は欠かせない。

 

歩きながら、山椒の香りをうっとりと楽しんでから

 

ちょっと申し訳なさそうに、

 

”I am sorry that you are so cheap."

 

と山椒に語りかけた。

 

申し訳なさそうに、山椒に語りかけるSuzieが

とても可愛らしくて、ほっこりした。

 

 

 

 

 

人の心に言葉がスッと入って、深く刺さるのは?

 

「なぜ、先生の言葉は、

スッと入ってきて、深く刺さるのだろう?」

 

と考えてみた。

 

というか、この問いをあげた途端に

一つの言葉が上がってきた。

 

 

「自然体」

 

 

先生は、いつもものごとの一歩手前を

示してくれる。

 

「誰でもできるようになってもらいたいと思っているので」

 

そう言って、どうしたらできるのか、

その一歩手前を丁寧に示してくれる。

 

飛躍がないから、スッと入ってきて、

「あ、そうか!」って心に刺さる。

 

でも、「心に刺さる」講座は他にもたくさんある。

 

それでも、講座の後、行動ができない、続かないことってよくある。

 

先生の講座で、すぐに行動ができるのは

「言葉がスッと入ってくる」からなんじゃないかな。

 

その言葉がスッと入ってくる理由は、

 

一歩手前を示してくれるから

 

もそうなのだけど、

 

 

先生が

 

 

「自然体」

 

 

だから。

 

 

なぜかはまだわからないけど

 

今は、なんとなくそんな気がしている。

 

 

 

 

 

 

リアルな場が好きだから

 

一昨日受けた みんながキラキラしている講座。

 

先生は、

 

「この講座は雑談につきあって下さいね~」

 

「いっそ居酒屋さんでやってもいいですよね~」

 

なんて言われますが、講座で伝えられる内容は、

先生の本業の企業コンサルで使われる秘訣が

惜しげもなく散りばめられたもの。

 

そんな秘訣が、普段使っているわかりやすい言葉で

身近なたとえで伝えられる。

 

だから、自分ごとにすぐに置き換えられる。

 

先生は、企業コンサルで培った秘訣を

悩んで動けない人のためにどんどん広めたいと思って、

誰でも参加できるこの講座を

ライフワークとして始めたんです、と言われた。

 

 

もっと広めたい。

 

 

でも、

 

 

「双方向のやりとりができるリアルな場が好きだから」

 

 

そう言って、少人数の講座にこだわりがある。

 

 

そんな考え方も素敵だなぁと思った。

 

 

 

 

 

 

問いを立てる前提とは?

 

一行目の問い。

 

それは、私の課題でした。

 

どんな悩みかと言うと、

 

「これって、本質を突いた問い?」

 

「これって、ワクワクする問い?」

 

時には、つい

 

「これって、正しい問い?」

 

なんて思ったりして、自分が立てた問いに

自信が持てないことでした。

 

問題だぁ~って思っている現状から

抜け出せずに、なかなかワクワクする問いが

イメージできずにいました。

 

昨日の先生の「問い100本ノック」

 

一つのシチュエーションに対して

3分間でできるだけ出した私の問いは

ものの見事に、全部

「どうしたら...」で始まる問いでした。

 

2つ目のシチュエーションについて問いを出す前に

先生は、一つのフレームをくれました。

 

それは

 

「その問いを問うた時に、自分がいい気持ちになるか?」

 

このフレーム、実は私、これまでに100回以上聴いてるんです。

 

そして実践しようとしてきました。

 

でも、現状にとらわれすぎて

ワクワクする問いをイメージするのが

簡単ではなかったのです。

 

それが、先生から問い出しの課題が与えられるにつれて

自分が作った問いにいい気持ちになれるようになってきました。

 

ではなぜ、いい気持ちになれる問いが作れるようになったと思いますか?

 

それは、教室の雰囲気が楽しいから。

 

脳が楽しい状態で考えるから、ノリで

 

こんな問いもアリかも?って

 

常識の枠を超えた問いが浮かんでくるのだと思うのです。

 

 

問いを立てる前提とは?

 

 

それは、 

 

 

「脳が楽しいノリ」

 

 

コレです(^O^)/!!