伝わるもの

 

いつも友人と話すと、こころが穏やかになります。

 

でも、特に今、友人と話していると

こころが凪いでいきます。

 

見守るようなまなざしで、今を見つめる。

 

身体の奥底から、静かに湧き出るやさしさとあたたかさ。

 

慈しみのまなざし。

 

 

雪が舞う夜、伝わる寒さ。

 

話す言葉、伝わる広く大きな愛。

 

書く言葉、伝わるやさしさとあたたかさ。

 

 

伝わるもの

 

 

 

「なんで私に!?」には意味がある

 

今日は、22時からWebExを使って、

初めての総務の全体ミーティングがありました。

 

新しい総務長が着任して始まった月1回の全体会議。

 

これまでパリ支局では、何回か行われていたみたいだけど、

時差の関係で、他のオフィスは招待されていなかったのです。

 

つなぐのは、パリ、ジュネーブコペンハーゲン、ナイロビ、そして日本。

 

パリ支局とナイロビの時差は、2時間程度だけど、日本は8時間。

 

一応案内は送ったけど、日本時間22時からのミーティングに

出席するとは思っていなかったみたいで、なぜか総務長が大歓迎。

 

次回からは、日本時間の18時から始めてくれることになりました。

 

と、そこまではよかったのですが、会議の終わりに

次回のミーティングのファシリテーターをやってほしいとの依頼。

 

ちょっと待って。。。

 

50人の前で話すなんて、きっと緊張しすぎて頭が真っ白。

というか、その話をしているとき、もうすでに頭が真っ白。

2時間の会議のファシリテーターなんてやったことない。

 

とりあえず時差が縮まるサマータイムが始まってから、

とのことだけど、あと1か月後には、もうサマータイムが始まる。

 

最初は、なんで会議に出てしまったんだろう。。と、後悔の嵐。

 

「なんで私に!?」

 

「なんで!?」

 

「なんで!?」

 

でも、時間が経って、落ち着いて考えてみると、

 

「なんで私に!?」

 

なことが起こったってことは、

 

きっと意味があることなのだろう。

 

そのまま受け入れてみようと思う。

 

まずは、私で実験してみます。

 

4月になって

 

やっぱり会議に出たことを後悔しているのか

 

それとも

 

何かに出会っているのか。

 

ご報告しますね。

 

 

「チャレンジャーでいる」って大変なこと?

 

質問です。

 

あなたは、「チャレンジャー」って聞くと、

どんなイメージをしますか?

 

私は、難攻不落の雪山に、極寒の中、

生死ギリギリのところで挑むチャレンジャー、

そんなイメージを持っていました。

 

よく、カリスマ経営者が「常に挑戦者であれ」って、

鼓舞してたりしますよね。

 

そんな常に、自分を追い込んで、

ギリギリのところでやってたら、身が持たない

私には無理だ、って思ってました。

 

でも、先日、その日できたことを手帳に書いていたら

「チャレンジャーでいること」は

しあわせなことなんじゃないか、とふと思ったのです。

 

今は、できないことがたくさんある。

でも、それを毎日、少しずつ

できたことを記録していく。

 

「できる」に近づいていく楽しみ。ワクワク感。

 

以前、友人が私に言ってくれたことがある。

 

「できないことがたくさんあっていいですね!」

 

なぜか?

 

「できないことがたくさんある」ってことは、

「できる」に近づく楽しみ、ワクワク感が

人よりもたくさん味わえるってこと。

 

その時は、頭で理解していたけど、

自分の言葉にはできていなかった。

 

ようやく、友人の言葉を、体感できました。

 

何も、難攻不落の雪山に挑まなくてもいい。

 

生死ギリギリのところで頑張ることが

チャレンジャーじゃない。

 

あなたが、今、できなくて

できるようになりたい、

って思っていること、

それを、ほんの少しでいいから

毎日、少しずつ

小さな「できた」を

重ねていくこと。

 

それで、あなたは十分

偉大な「チャレンジャー」なのです。

 

スティーブ・ジョブズの、スタンフォード大学

卒業生に向けて贈ったあの有名な言葉。

 

"Stay hungry, stay foolish."

 

今なら、わかる。

 

ジョブズは、

しあわせに生きる方法を

知っていた。

 

そして、これからの未来を創る学生たちに

そのことを言葉で贈った。

 

”Stay hungry, stay foolish."

 

いつも足りない自分でいい。

いつも欠けてる自分でいい。

いつもバカな自分でいい。

 

ただ、希望を持ったチャレンジャーで、居続けること。

 

それは、しあわせに生きるための

もう一つの大前提なのだと思います。

 

 

「吹き出し笑い」のススメ

 

「早め早めの行動が大事」

 

友人が言う。

 

私は、夏休みの宿題を最終日に必死でやってた人。

 

「早め早めの行動が大事」

 

いつもそう思ってるけど、なかなか実行できない。

 

でも、今回は、本当にそうだなぁと思って

 

「今年は、私も、早め早めの行動にします」

 

と言うと、「どうしたの?」と。

 

「懲りました、論文で。」の私の言葉に

 

友人が、吹き出したように愉快に笑う。

 

なんだかとっても楽しく、うれしくなりました。

 

なぜって?

 

笑い方っていろいろありますよね。

 

「笑う」擬音語もいろいろ。

 

ふふふ

ははは

ほほほ

くつくつ

カラカラ

くっくっ

わっはっは

 

などなど。

 

どれも好きだけど、特に、吹き出し笑いは

お気に入り。

 

「笑う」ことに、躊躇も気兼ねもなく

勢いがある。

 

屈託のない笑い声。

 

そして、自分の失敗を

一緒に笑い飛ばしてくれる。

 

すると元気になれるから不思議。

 

 

 

あなたは、最近

 

吹き出し笑い、

 

いつ、しましましたか?

 

 

 

あなたの吹き出した笑い声が

 

あなたの周りの人を

 

楽しく、しあわせにしますよ☆

 

 

すべてが感謝

 

昨日、博士論文を提出しました。

 

長い間、悩んでいて、まったく進まなかった論文。

 

博士論文を出す前に

必ず合格しなければならない論文が1本。

 

それを、博士課程の1年目で早々に合格してから

まったく研究が進まなくなった。

 

もちろん、研究だけのせいじゃない。

 

いろんなことを悩んでいた時期でもあったから

そんなことも重なって、それから3年

まったく進まなかった。

 

ところが、去年の6月1日に、今年博士論文を出すと決めてから

ほんとに少しずつ、錆びついていた歯車が

まわり始めた。

 

最初は、ほんとに

ゆっくり。

 

かすかに光が差し込んできた

ほこりのかぶった、ひっそりとした風車小屋で、

錆びついた歯車が

音を立てて、軋みながら

ゆっくりとまわり始める。

 

少しずつ、少しずつ。

 

そうして、ようやく、風車が回り始める。

 

時間がかかった。

 

だけど、この2か月。

 

博士論文で必ず通る道、と言われていた

道をすべて経験した。

 

人より短かったかもしれないけど、

すべてが凝縮されていた。

 

落ち込んだり、

 

焦ったり、

 

不安になったり、

 

まったく頭が働かなくなったり。

 

今は、そういうこともひっくるめて

すべてが瞬くようにきらめく瞬間。

 

ただただ感謝しかない。

 

今まで生きてきた中で

確実に、特別な時間。

 

この時間を一緒につくってくれたこと

この時間をこんな風に感じることを

教えてくれたこと

本当に、ありがとう。

 

毎日、聴いてくれて

毎日、ゴールをイメージさせてくれて

毎日、励ましてくれて

毎日、笑顔をくれて

毎日、やさしい声を聴かせてくれて

 

本当にありがとう。

 

そして、なにより

 

私の錆びついた歯車が動き出すように

 

丁寧に、丁寧に

 

錆を取っていってくれたこと。

 

あなたが少しずつ、少しずつ

錆を取っていってくれたから

毎日、丁寧に、油をさし

磨いてくれたから

このかけがえのない

宝物の時間を感じとることができました。

 

明日から、

私の経験した特別な時間のこと

少しずつ、書いていこうと思います。

 

 

「子供っぽい」ってダメなこと?

 

「子供っぽいこと言ってないで」

 

ときどき、母が私に言う言葉。

 

今朝も、言われた。

 

あるちいさな出来事があって

 

「弟は、さみしいと思うよ。

だから、お母さんが、もっと電話とかしてあげたらいいと思う」

 

と言うと、母はちょっと怒ったように

 

「子供っぽいこと言ってないで」と。

 

 

母は、誰よりも弟のことを気にかけている。

 

あんなこともしてあげたい

こんなこともしてあげたいと

いつも思っていることを

私は知っている。

 

弟の笑顔は、母の何よりのよろこび。

 

だけど、言葉には出さない。

 

表に出さない。

 

してあげたいと思っているのに

 

弟に面と向かって出てくるのは、

 

もっとこうしなきゃ

 

こうでなきゃ

 

っていう言葉ばかり。

 

弟も、毎回そうだとちょっとうんざり。

 

そして、弟がちょっと電話に出なかったり

かけ直してこなかったりすると

さみしそうにそのことを話しながら、

私に「たまには電話してあげて」

「気にかけてあげて」という。

 

本当は、母が一番電話をしたいのに。

 

ときどき、母のしたことに

弟がすごくよろこんでいたり、

弟と話をして

いつものようにお説教せずに

一緒に何かを喜んであげたら

弟がよろこんでいたことを、

少女のように

うれしそうに話してくれる母を

私は知っている。

 

 

母は、弟を

「男の子だから」

といって、厳しく育ててきた。

 

小学校3,4年生のとき、

 

「母は、なぜ弟にあんなに厳しいのだろう」

 

と思っていた。

 

同じことをしても、わたしには

あんなにきつく叱らなかった。

 

自分がしたことが

あれほど叱られるほど

ダメなことだったんだ。

 

でも、弟はあそこまできつく叱られて

私はそんなにきつく叱られていない。

 

弟がかわいそうで、弟に申し訳なくて、

母に聞いてみたことがあった。

 

「なぜ、私にはあんなにきつく怒らなかったのに

弟には、あんなに怒るのか」と。

 

その時の母の言葉は、

 

「男の子だから」

 

「長男だから」と。

 

 

理由はわからなかった。

 

だけど、

 

男の子であること

 

長男であることで

 

こんなに

 

厳しく叱られなきゃいけないんだ、という

 

暗く、重く、得体のしれない何かが

 

私を埋め尽くしたのを覚えている。

 

 

あまりに厳しかったときは

泣きながら、やめてほしいと母にたのんだことも

何度かある。

 

なぜ、母はこんなに弟に厳しいのだろう?

 

そのときはわからなかった。

 

でも、今ならわかる。

 

あのとき、母は、弟に厳しく叱りながら

こころでは泣いていたこと。

 

母は、素直ではない。

 

私が筋金入りのあまのじゃくだったのも

母ゆずりだろうと思う。

 

 

「子供っぽい」

 

 

「子供っぽい」ってどういうこと?

 

いけないこと?

 

そんなこと言っちゃダメなこと?

 

 

 

でも、ひとつだけわかることがある。

 

母には、「子供っぽい」ことが必要なんだってこと。

 

子供の頃に

 

「子供っぽい」ことを十分にしていないから

 

「子供っぽい」感情を十分に味わっていないから

 

だから、今

 

味わう必要がある。

 

 

大人になるには、

 

ちゃんと「子供である自分」を経験しないと

 

大人にはなれないのだ。

 

 

今さら、、、

 

なんて思うかもしれないけど、

 

今、十分に味わわないと

 

ずっと大人にはなれない。

 

 

 

だって

 

子供から、

 

ひとつ、ひとつ、階段を上って、

 

初めて、

 

大人になれるのだから。

 

 

 

いつも憎まれ役を買ってでる母。

 

そして、いいところはいつも人に譲る母。

 

そうしてずっと今まできた不器用な母に

 

自分の素直な気持ちを表現するよろこびを知ってもらいたい。

 

 

 

「子供っぽいこと言ってないで」

 

母には、また言われるかもしれないけど 

 

言い続けていこうと思う。

 

 

 

 

私も、

 

「こんなこと思うなんて、なんて子供っぽいんだろう」

 

「あー、またやっちゃった。。。」

 

って思うこと、たくさんあります。

 

いえ、しょっちゅうです。

 

そんなとき、

 

去年までは、

 

自己嫌悪で埋め尽くされていました。 

 

今は、自己嫌悪にはならなくなったけど

 

相変わらず、手を焼きます。

 

でも、

 

「子供っぽい感情」を十分に

 

味わわないと

 

大人にはなれない。

 

 

今日は、そう気づけたから

 

今度から

 

子供っぽい感情の私を見つけても

 

大人になるために成長してるんだと思って

 

許してあげようと思います。

 

 

そして、きっと

 

「子供っぽい感情」は

 

自分の「素直な」感情の表れ。

 

 

「子供っぽい」、

 

自分の「素直な」感情を

 

十分に味わって

 

自分の好きな大人になっていきたい

 

そう思います。