「一緒にする」ということ

 

手術後、ほとんど動かなくなった叔母の右手。

 

普段は、父や母が見てくれている。

 

私が日帰りで行くときは、

片道4時間、滞在時間5時間くらい。

 

行ったときは、少しでも快適に過ごしてもらいたくて

掃除や料理、リストアップしたものを

限られた時間でやる。

 

そんなとき、 

叔父は、だいたい「それ、わたしがやるから」

と言って、自分でやろうとする。

 

だけど、記憶がぼんやりとしてきているなか、

最近は、朝ご飯を食べた後、2時間でも3時間でも

新聞をじっと見て、動こうとしないという叔父。

 

「ありがとう。大丈夫、大丈夫。

私がやるから、ゆっくりしてて」

 

そう言うと、

 「そうかい。すまんなぁ」

と言うのだが、

数分後には、また同じ会話をしている。

 

そんなやりとりを何度もしながら、

リストアップしたことを全部やって

帰ろうとしたとき、ふと

なんとなくさみしそうな叔父の様子に気づいた。

 

帰り道、車を運転しながら、

なんでだろう?と考えていたら

ハッと気づいた。

 

あ!

せっかく叔父が、

自分でやろう、手伝おうと言ってくれているのに、

私は、全部一人でやってしまっていたんだ。

 

これからは、

叔父が言ってくれたときは、

一緒にやろう。

 

そう思うようになって、

前回は、叔父に枝豆を枝からはずしてもらい、

両端を切ってもらうのをお願いした。

 

叔父と一緒に台所に立つ。

 

「あんたも料理できるなぁ」

 

と、叔母が茶々を入れながら、うれしそうに見ている。

 

そのあと叔父は、

美味しくできた枝豆を

一人でほとんど食べたと聞いた。

 

今日は、部屋に掃除機をかけているときに

叔父がやって来た。

 

小さい頃から、掃除機かけがあまり得意ではなくて、

「四角い部屋を丸く掃除する」

と、よく注意されていた私。

 

「私がやるから」の叔父の言葉に、

「じゃぁ、お願いします♫」の二つ返事で

掃除機を叔父に手渡した。

 

居間にいる叔父を、台所から見ると、

几帳面な叔父は、隅々まで掃除機をかけてくれている。

 

叔父がきれいに掃除機をかけてくれた後の

雑巾がけは、楽ちんだった。

 

そう叔父に伝えると

とってもうれしそうだった。

 

その後、叔父は

自分からすすんで、洗濯物を取り入れてくれたり、

お寺さんの来る前に、仏間にクーラーを入れてくれてたり。

 

いつもは、叔母が何度もお願いして

ようやく重い腰をあげてやってくれるようなことも、

いつの間にか自分からすすんでやってくれていて、

叔母がうれしそうに驚いていた。

 

一緒にするということ。

 

一緒にすると、楽しい。

 

お互いに苦手なことが、カンタンにできる。

 

その楽しさが、周りの人もしあわせにする。

 

叔父から、教えてもらいました。